吉祥寺の沿革

 寛永七年(一六三〇年)創建による曹洞宗の禅寺で本尊は釈迦如来。 

正徳元年(一七一一年)に吉野禅林院全海が再建したが、大正五年(一九一六年)に失火のため全焼。

 

 

大石内蔵助をはじめとする四十六士が元禄十六年(一七〇三年)二月四日に切腹の後、足軽のゆえを以て幕府から切腹御免となった寺阪吉右衛門が、四十六士の遺髪、遺爪、鎖帷子等に銀十両を添えて江戸では幕府に遠慮して墓の出来なかった義士たちの冥福の為の建碑を依頼したもの。

 

浅野内匠頭の墓は浅野の本家芸州侯の依頼により建てられたものである。

 

 

同十四年に復興をしたが更に昭和二十年(一九四五年)三月十四日の大空襲で堂宇を始め四十七義士遺品並びに寺宝に至る迄全て灰燼となり、残るは墓石と蔵屋敷にあった石燈籠だけである。

 

 

 討ち入り当時の住職縦鎌和尚は赤穂の出身で、特に長矩侯の帰依を受け、為に当寺は浅野家の大阪菩提寺として東京泉岳寺と同じ山号である「万松山」を長矩侯より与えられ、折に触れては必ず立ち寄られるところとなった。

 

 

写真の47義士の石像は芝生の中に有る南塀際、討ち入り300年にあたり吉祥寺所蔵の浮世絵を手本に立体化し、デフォルメされた部分を如何に人間らしく仕上げるかをモチーフに中国の石工さんと共に住職が作り上げたもの。

 

四十七義士を広く世に知らしめた要因に歌舞伎や人形浄瑠璃が挙げられる。

特に「仮名手本忠臣蔵」は人気演目のひとつであり、初演は寛延元年(1748年)8月、大阪竹本座であったと言われる。

吉祥寺にはその人形浄瑠璃三味線の名跡である二代目鶴沢寛次郎や五代目野澤吉兵衛、六代目野澤吉彌たちなど錚々たる顔ぶれの墓が祀られている。

 

 

五代目 野澤吉兵衛。

本名 鈴木繁造。天保12年1月3日-明治44年2月21日。

讃岐國に生まれる。文久二年に四代目の門下生となり、のち五代目吉彌を襲名。

 

六代目 野澤吉兵衛。

本名 松井福松。

慶応4年9月6日-大正13年6月4日。

大阪生まれ。明治10年、六代目吉彌の弟子で野澤兵三。明治17年三代目野澤吉三郎に改名。のちに五代目野澤吉兵衛の門下生となり、明治23年7代目吉彌を襲名。世話物を得意とし三代目竹本越路大夫の相三味線を務めた。野澤会を結成し後進の育成指導に尽力した。

 

二代目 鶴沢寛次郎。

嘉永2年-明治17年2月5日。

大阪市堺市生まれ。5代目鶴澤傳吉の門弟。幼少時より三味線に親しみ明治7年に五代目寛治を襲名。文楽座にて竹本重太夫の相方を務め好評を得る。病の多い生涯であった人物でもある。

 

 

 

また、かかる寺であったが故に茶道、特に「庸軒流」との関わりが深い。

庸軒流とは藤村庸軒を流祖と仰ぐ茶道の流派の総称で、初期の伝承系譜によりいくつかの派に分けられる他、地域ごとに継承の伝統がある。

 

上の写真は白井道順(観徳斎)の墓。

 

藤村庸軒は久田家初代の久田宗栄次男で、呉服商十二屋の藤村家に養子に入ったとされる(異説もある)千宗湛の元免許皆伝を受け、宗旦四天王の一人に数えられた。藤村庸軒の門人には優れた茶人が多くそれぞれの系譜が伝わっている。そのうち現在まで伝わっているのは藤村正員、近藤柳可、比喜多宗積の流れである。

藤村家の本家である十二屋は庸軒長男の恕堅から、途中養子を取りながら継承されたものの、茶の系譜は恕堅と松軒のみで絶えてしまった。

 

白井観徳斎は藤村正員派の流れを組む六代目の家元で、また大阪城の御典医でもあった人物である。

藤村正員は庸軒の次男で、大阪関東屋の養子となった人物。

障害を通じ病弱であったため茶の湯のみを唯一の楽しみとして過ごしたとされる。

この系譜が藤村正員派と称され、現在でも京都で伝承されている。

 

 

このような歴史的な背景から、義士祭では四十七義士の鎮魂祭のみにとどまらず、三味線や茶道の野点など古き良き日本の文化を次世代に受け継ぐ催しも長く執り行われてきていることを特筆しておきたい。